アヴェ・ヴェルム・コルプス

モーツァルトが、死の年に書いた作品のひとつに「アヴェ・ヴェルム・コルプス」がある。わずか46小節、演奏時間にして4分足らずの合唱曲である。この曲の、もはやこの世のものとは思えない清澄な旋律を耳にするたびぼくは、モーツァルトの魂はこのときすでに半分は天に召されていたのではないか、そんな風にかんがえてしまう。枝から落ちる直前の、ごく小さいながらも完全に熟しきった果実のような音楽。

 鎌倉の釈迦堂切通そばに、「古典派」という名前の喫茶店があった。民家の一部を改装したといったようなちいさな店だ。立ち寄ったのはたった一度、その当時つきあっていた女の子との鎌倉散策の途中だったが、そこでぼくは、やわらかな冬の午後の日差しと庭先の木々に遊ぶ小鳥のさえずりとともに「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴いた。でも、もしかしたら実際のところはここで「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴きたい、そう思っただけかもしれない。もうずいぶんと昔のことで、いまとなっては本当のことなど知る由もない。

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