1946年のモランディ

■ CDをいくらか処分することにし御茶ノ水まで運んでゆき、査定を待つあいだ東京ステーションギャラリーで「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」を観てきた。

 モランディという名前を知り、その作品に触れたのはいまから26年前のこと。西武デパートがまだ有楽町マリオンにあったころ、そのなかのアートフォーラムで回顧展がひらかれたのだ。おなじモチーフをおなじトーンで執拗に描きつづけるその独特の作品世界に圧倒されはしたものの、かえって一枚一枚の絵についていえば強い印象は残らなかったと言っていい。だから、今回はあえて、舌の上でアメ玉を転がすようにじっくり見てやろう、そんなふうにかんがえた。

■ サインの位置にみる〝自由〟さ、意外に作品ごとに異なるタッチなど、じっくり見てゆくと気づくこともさまざまある。が、もっとも目を引かれたのはその「線」であった。

 その「線」をみると、モランディがほんとうに描きたかったのは「もの」ではなく、「もの」がある世界の、その世界を充たしている気(エーテル)だったのではないか、と思えてくる。「線」とは、「もの」を空気から隔てる輪郭などではなく、「もの」と空気とがそこで出会うところ、波打ち際である。だから、モランディの描く線はいつもふるふると揺れているのだ。一見静かにみえるモランディの絵と、一瞬の世界を切り取った写真との決定的な差異はそこにある。モランディの静物画はいつも動いている!

■ 会場の第2室に、2枚の静物画が掛けられていた。ほぼ同じ構図である。後ろに並んだ3つのうつわは並び順までそっくり同じだが、手前に置かれた小振りなうつわが一枚は中央に1個、もう一枚は左右に離れて2個とそこがちがう。じつは、前者が1946年の作品、そして後者が1936年の作品である。まさか、2枚の絵のあいだに10年もの時間の隔たりがあるとは…… 思わずキャプションを二度見してしまった。

 けれども、この2枚はやはりまったく別物だ。そして、ぼくは断然「1946年作」の方を取る。キャンバスの地が見えるくらい薄塗りで、また筆の行き来にも慎重さが窺われる「1936年作」に対し、「1946年作」からはより大胆かつスピーディーな仕事ぶりが感じられる。まるで、早くつかまえなければ逃げられてしまうとでもいうかのように。

 キリコの影響から抜け出したと思われる1930年前後にこのふるふると揺れる線はモランディの絵のなかに登場し、その後晩年まで一貫して変わることはない。モランディは、半生をかけてエーテルの揺らめきを〝生け捕り〟せんと試行錯誤しつづけたのではないだろうか。ぼくが今回の展覧会をみて強く感じたことは、こんなことであった。

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モランディによる2枚の静物画 上が1946年の、下が1936年の作