『少年満州讀本』『ペトロフ事件』『ほんほん蒸気』

ここはあくまでも気になったことを書き留めておく場所、まとまったことは書かないという決め事を自分に課していたはずなのに、早くも脱線気味。

 昭和13(1938)年、日本文化協会の委嘱により作家の長與善郎が著した『少年満州讀本』の復刻版を読む。内地で育った小学生の兄弟、一郎と二郎をその父が案内しながら満州を旅するというガイドブック形式の紀行文。現地では、兄弟のいとこで満州育ちの満州子(ますこ)も旅に加わる。キナ臭い現実はひとまず忘れ、〝失われた国〟の旅行記として読むとそれはそれは面白い。

 手にした直接的なきっかけは、鮎川哲也のデビュー作で満州を舞台にした長編本格ミステリペトロフ事件』を読んで「満州」という土地が気になったから。鮎川哲也は、父親が満鉄で技師をしていたため少年期を大連で過ごした。

 『少年満州讀本』は、序文を当時の文部大臣木戸幸一が寄せていることからも明らかなとおり少年少女向けの啓蒙書である。この本を書くにあたって、おそらく著者はかなり長期の、しかも中身の濃い取材旅行をしたのだろう。平易な文章で、現地の人々やその暮らしぶり、自然や産業、さらには満州の抱える政治的問題までが要領よくまとめられている。満州が、いかに広大で豊かな資源に恵まれた未来のある土地であるかが、いわばこの本の通奏低音。内地の人間に開拓民たちの苦労を伝え、おなじ日本人として心をひとつにして協調するよう釘をさすことも忘れない。 発行元の「日本文化協会」は日比谷の市政会館に本拠をかまえていた社会事業団体で、さまざまの分野の「学者の卵」が研究生として所属していたとのこと(参照:日本文化協会と国民精神〜「物語の森blog版」)。ヘーゲル弁証法を援用し日本精神のあり方について説いた哲学者の紀平正美が深く関わっていたということからも、この組織の性格については想像のつくところ。「満蒙政策」の、この時期の芸術文化方面からの啓蒙活動には、あるいはこの組織が中心となって動いていたのかもしれない。

  『少年満州讀本』を読みながら、偶然みつけた「満州写真館」という当時の満州の都市や人びとを撮影した貴重な写真を数多く掲載したウェブサイト楽しむ。鮎川哲也の『ペトロフ事件』が、物語のなかで当時の様子をかなり忠実に再現していることがわかった。

取り置きをしてもらっていた「ほんほん蒸気」創刊号を引き取りに高円寺の「アムレテロン」まで行く途中、ちょうど阿佐ヶ谷と高円寺の中間あたりでふた月前くらいに夢の中でみた「家」に出くわす。大きな三角屋根をもつ築5、60年ほどの平屋で、板壁は薄い空色に塗られている。つけくわえるまでもないが、この道を通るのはもちろん生まれてはじめてである。

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ラスキン文庫

ちょっと前の話になるけれど、世田谷美術館でみた濱谷浩の回顧展でのいちばんの収穫といえば、1930年代の東京を撮った写真のなかに「ラスキン文庫」をみつけたことだった。落ち着いた書斎風の一室にくつろぐ数人の男女。あらためてじっくり確認したいところだけれど、あいにく図録が手元にないのでままならない。

ラスキン文庫」の主人は御木本隆三。明治26(1893)年、三重県に生まれ東京帝国大学で英文学を、京都帝国大学で経済学を学んだ後、大正9(1920)年に渡英、ケンブリッヂ大学、オックスフォード大学で学んでいる。

 イギリスでなにを研究していたのかははっきりしないが(※)、そこで完全にジョン・ラスキンの思想に魂を奪われてしまったことは、帰国後の昭和6(1931)年、「東京ラスキン協会」なる団体を設立したことからも明らかである。「ラスキン協会」という拠点をもったことで以前にも増して執筆や翻訳にも熱が入った隆三は、昭和9(1934)年には銀座に「ラスキン文庫」を開設、渡英するたびに蒐集した膨大な書籍や資料の収蔵をしたほか「ラスキンテーハウス」と称する喫茶室も構えた。レンズを通して濱谷が切り取ったのは、或る日の、この「ラスキン文庫」の姿である。

 さらに彼は、銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、銀座五丁目に「ラスキンホール」と続けて開業するが、彼はラスキン文庫を「コニストン湖畔のラスキン・ミュジアム」に、ラスキンホールを「ラスキンのかつて開いたラスキン・ティー・ハウス」に、ラスキンカテッジを「北英に尚現存するラスキン手工業の片影たるラスキン・リネン.インダストリーの小販売所」に対応させて構想していたふしがある(※※)。隆三は言う「之れ等は雑然たる銀座街にも適応せねばならず、又ラスキンの生誕地や、その臨終の家ブラントウッドの一室の如くでもなければならないのです」。銀座は、彼にとってラスキン思想の生きた実験場であると同時に、それによって偉大な思想家の魂を身近に感じうる〝聖地〟となるはずであった。その傾倒ぶりは、まさに〝崇拝〟と呼んでいいレベルである。

  御木本隆三と彼の「ラスキン文庫」が有名な理由は、けれども、そのラスキン研究の業績によってばかりではない。

 彼は、「真珠王」として知られる御木本幸吉の息子、しかも長男でありながらラスキン研究に没頭するあまり家業を継ぐこともせず莫大な浪費を重ね、ついには弱りはてた近親者から「準禁治産者」として申し立てられる始末。まさに絵に描いたような放蕩息子、落語に登場する「若旦那」だったのだ。

 そんな隆三を、当時のゴシップ好きの連中が放っておくはずがない。昭和13(1938)年に連載がスタートした久生十蘭の小説『魔都』には、明らかに彼をモデルにしたと思われる「山木元吉」という「珊瑚王の倅で名代の好事家(ディレッタント)」が登場する。〝30年代の東京〟を1920年代のパリやベルリンのように描こうと試みた久生十蘭にとって、御木本隆三は欠かすことのできない〝時代の落とし子〟のひとりであったのだろう。 じっさい、30年代東京のモダニズムの魅力の一端は、こうした〝徒花〟的な人物によるところも大きいのである。

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(※)一般財団法人ラスキン文庫のウェブサイトにある御木本隆三のプロフィールによると、隆三は第一高等学校在学中(1910年前後?)にジョン・ラスキンの思想と出会ったとのこと。長谷川堯ラスキンの名前が日本のアカデミズムに拡散した時期について、ラスキンの没後クック=ウェッダーバーンにより約10年の歳月をかけて編纂された『ラスキン全集』(全39巻)が漸次輸入された明治30年代後半から40年代後半あたりではないかと指摘している(『都市回廊あるいは建築の中世主義』)。若き御木本隆三のラスキン熱も、まさにこの〝パンデミック〟の時期にあたっている。

(※※)杉原四郎が論考「思想家の研究雑誌」にて引用したラスキン文庫の機関誌「ラスキン文庫」昭和12年4月号裏表紙に印刷された文章より。

アヴェ・ヴェルム・コルプス

モーツァルトが、死の年に書いた作品のひとつに「アヴェ・ヴェルム・コルプス」がある。わずか46小節、演奏時間にして4分足らずの合唱曲である。この曲の、もはやこの世のものとは思えない清澄な旋律を耳にするたびぼくは、モーツァルトの魂はこのときすでに半分は天に召されていたのではないか、そんな風にかんがえてしまう。枝から落ちる直前の、ごく小さいながらも完全に熟しきった果実のような音楽。

 鎌倉の釈迦堂切通そばに、「古典派」という名前の喫茶店があった。民家の一部を改装したといったようなちいさな店だ。立ち寄ったのはたった一度、その当時つきあっていた女の子との鎌倉散策の途中だったが、そこでぼくは、やわらかな冬の午後の日差しと庭先の木々に遊ぶ小鳥のさえずりとともに「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴いた。でも、もしかしたら実際のところはここで「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴きたい、そう思っただけかもしれない。もうずいぶんと昔のことで、いまとなっては本当のことなど知る由もない。

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迎賓館、レーモンドと教文館、橋63

■ ほとほと迎賓館には縁がない。抽選には毎度ハズレる、先着順の一般公開と聞き地下鉄に飛び乗れば、すでに午前11時の時点で3,000枚の整理券の配布は終了したという。それでも、お目当ての「噴水池」だけでもゆっくり観られればと思ったら、「噴水池」があるのは自由に入れる前庭ではなく整理券が必要な主庭とのこと。曾祖父が手がけた彫刻、いつになったら観ることができるのか。

 

■ 銀座の教文館ビルで、この建物の設計者であるA・レーモンドにかんする展示「日本近代建築の父アントニン・レーモンドを知っていますか〜銀座の街並み・祈り」を観る。写真と設計図でレーモンドの代表作をたどる展示内容。他には南山大学の模型、レーモンドが描いた抽象画が2点など。教文館もそうだが、戦前からキリスト教関係に強いネットワークを持っていたようで教会、キリスト教系の学校、病院が作品の中心を占めている。ぼくの生まれた東京衛生病院もレーモンドが手がけていたとはついぞ知らなかった。竣工時の教文館・聖書館ビルの簡素にしてモダン、その清潔な美しさにあらためて感心する。入場料500円、図録300円、小冊子「教文館ものがたり」50円。

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 ■ 帰りは、新橋駅から夏以来ひさびさに都バス「橋63」系統に乗車。霞ヶ関の官庁街、国会議事堂から赤坂見附、麴町を経て市ヶ谷へ、牛込から戸山が原を抜けてコリアンタウンの新大久保、大久保の先まで。下町から山の手、さらには郊外という戦前の東京の面影をなぞるように走る、乗っていて飽きのこない路線である。乗車時間は1時間弱。

そういえば、蓮沼執太の「RAW TOWN」という曲の歌詞には落語「黄金餅」の言い立てよろしく、東京駅から新宿区若松町の先に至る道のりがそのまま登場するのだけれど、途中「国会議事堂前」のバス停から歌の主人公が乗り込むのがこの「橋63」である。PVのなかでバスの車窓から市ヶ谷の濠端を眺めるシーンは、おなじ「橋63」でも逆方向、新橋駅行きから見ることのできる風景。坂を下りきると目の前に満開の桜が広がる、春になったらまた乗ってみよう。


蓮沼執太『メロディーズ』MV「RAW TOWN」