描かれた大正モダン・キッズ

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◆ずっと以前から、板橋区立美術館はいい企画展示をやる美術館だった。とくに、〝池袋モンパルナス〟界隈の戦前の洋画家たちの作品の展示にかけては他の追随を許さないといった感がある。まだ学生だったころ、実家が比較的近所だったこともありぼくはここで松本竣介長谷川利行といった名前を知った。尾崎眞人さんが学芸員をなさっていたころだ。

 その板橋区立美術館で、《描かれた大正モダン・キッズ  婦人之友社『子供之友』原画展》という展示をみてきた。すでに尾崎学芸員はここを離れて久しいが、その〝伝統〟は継承されているようでこの展示も広い意味での〝池袋モンパルナス〟界隈といえるだろう。『子供之友』の出版元である婦人之友社雑司が谷の上り屋敷(池袋と椎名町の間)にあり、社主の羽仁吉一・もと子夫妻は後に自由学園もこの土地につくっている。昭和4(1929)年3月、上京した松本竣介はこの近所に住むようになるが、それはかつての恩師が自由学園で教師をしており世話してくれたからだという(宇佐美承『池袋モンパルナス』を参照)。ちなみに、婦人之友社の社屋も自由学園とおなじくフランク・ロイド・ライトの設計によるものだった。

◆さて、『婦人之友』読者の子供たちをターゲットに創刊されたという雑誌『子供之友』だが、大正3(1914)年4月の創刊号からしばらくは「日本における近代漫画の祖」と称される北澤楽天が表紙、挿絵などを手がけている。さらに、当時すでに売れっ子だった竹久夢二らが加わる。ただ、個人的には、まだこのあたりは子供向けに描かれた「絵」という印象で原画をみる楽しさはあるが「モダンさ」はさほど感じられない。

 表紙にモダンの風が吹きはじめるのは、やはり岡本帰一、ベルリン帰りの村山知義、そしてみずからの作品を「童画」と名付けた武井武雄らの登場以降だろう。彼らはそこに「グラフィカルデザイン」の視点を持ち込んだ。たとえば岡本帰一が表紙を手がけた昭和5(1930)年6月号では、それまでの作家とは異なり「子供之友」というロゴにも細心の注意が払われていることがわかる。ワクワクするような装飾的な文字で描かれている。その絵筆によって子供たちをファンタジーの世界へと誘う彼らの原画は、それまでのどこか教科書のような作品とはまるっきり異なっていた。

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◆「国家総動員法」が成立した昭和13(1938)年あたりになってくると、さすがにこの雑誌にも戦争の影がさしはじめる。すでにここで取り上げた『少年満洲読本』が発行された年である。従軍画家として蒙古に滞在したことのある深沢省三による騎馬民族を描いた絵や満州の資源についての文章など、誌面に満蒙の話題が登場する。子供たちも、もはやファンタジーの世界に遊んでいるわけにはゆかない。戦時下の子供は、子供なりの果たすべき勤めがあるのである。それでも、思ったより非常時の緊迫した空気が感じられないとしたら、それは当時の編集者や作家たちによる「牙城」を守ろうとの必死の攻防戦の結果ではないだろうか。そこに静かな怒りと抵抗とをみた。

◆それにしても、『子供之友』しかり、鈴木三重吉の『赤い鳥』しかり、この時代、教育者のみならず文学者や芸術家たちまでが子供たちのために何ができるか? つねに真剣にかんがえ取り組んでいたことにあらためて感じ入る。それは、子供たちの教育を通じて未来をよくすることができるという確信を彼らが共有していたからこそできたことにちがいない。