ラスキン文庫

ちょっと前の話になるけれど、世田谷美術館でみた濱谷浩の回顧展でのいちばんの収穫といえば、1930年代の東京を撮った写真のなかに「ラスキン文庫」をみつけたことだった。落ち着いた書斎風の一室にくつろぐ数人の男女。あらためてじっくり確認したいところだけれど、あいにく図録が手元にないのでままならない。

ラスキン文庫」の主人は御木本隆三。明治26(1893)年、三重県に生まれ東京帝国大学で英文学を、京都帝国大学で経済学を学んだ後、大正9(1920)年に渡英、ケンブリッヂ大学、オックスフォード大学で学んでいる。

 イギリスでなにを研究していたのかははっきりしないが(※)、そこで完全にジョン・ラスキンの思想に魂を奪われてしまったことは、帰国後の昭和6(1931)年、「東京ラスキン協会」なる団体を設立したことからも明らかである。「ラスキン協会」という拠点をもったことで以前にも増して執筆や翻訳にも熱が入った隆三は、昭和9(1934)年には銀座に「ラスキン文庫」を開設、渡英するたびに蒐集した膨大な書籍や資料の収蔵をしたほか「ラスキンテーハウス」と称する喫茶室も構えた。レンズを通して濱谷が切り取ったのは、或る日の、この「ラスキン文庫」の姿である。

 さらに彼は、銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、銀座五丁目に「ラスキンホール」と続けて開業するが、彼はラスキン文庫を「コニストン湖畔のラスキン・ミュジアム」に、ラスキンホールを「ラスキンのかつて開いたラスキン・ティー・ハウス」に、ラスキンカテッジを「北英に尚現存するラスキン手工業の片影たるラスキン・リネン.インダストリーの小販売所」に対応させて構想していたふしがある(※※)。隆三は言う「之れ等は雑然たる銀座街にも適応せねばならず、又ラスキンの生誕地や、その臨終の家ブラントウッドの一室の如くでもなければならないのです」。銀座は、彼にとってラスキン思想の生きた実験場であると同時に、それによって偉大な思想家の魂を身近に感じうる〝聖地〟となるはずであった。その傾倒ぶりは、まさに〝崇拝〟と呼んでいいレベルである。

  御木本隆三と彼の「ラスキン文庫」が有名な理由は、けれども、そのラスキン研究の業績によってばかりではない。

 彼は、「真珠王」として知られる御木本幸吉の息子、しかも長男でありながらラスキン研究に没頭するあまり家業を継ぐこともせず莫大な浪費を重ね、ついには弱りはてた近親者から「準禁治産者」として申し立てられる始末。まさに絵に描いたような放蕩息子、落語に登場する「若旦那」だったのだ。

 そんな隆三を、当時のゴシップ好きの連中が放っておくはずがない。昭和13(1938)年に連載がスタートした久生十蘭の小説『魔都』には、明らかに彼をモデルにしたと思われる「山木元吉」という「珊瑚王の倅で名代の好事家(ディレッタント)」が登場する。〝30年代の東京〟を1920年代のパリやベルリンのように描こうと試みた久生十蘭にとって、御木本隆三は欠かすことのできない〝時代の落とし子〟のひとりであったのだろう。 じっさい、30年代東京のモダニズムの魅力の一端は、こうした〝徒花〟的な人物によるところも大きいのである。

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(※)一般財団法人ラスキン文庫のウェブサイトにある御木本隆三のプロフィールによると、隆三は第一高等学校在学中(1910年前後?)にジョン・ラスキンの思想と出会ったとのこと。長谷川堯ラスキンの名前が日本のアカデミズムに拡散した時期について、ラスキンの没後クック=ウェッダーバーンにより約10年の歳月をかけて編纂された『ラスキン全集』(全39巻)が漸次輸入された明治30年代後半から40年代後半あたりではないかと指摘している(『都市回廊あるいは建築の中世主義』)。若き御木本隆三のラスキン熱も、まさにこの〝パンデミック〟の時期にあたっている。

(※※)杉原四郎が論考「思想家の研究雑誌」にて引用したラスキン文庫の機関誌「ラスキン文庫」昭和12年4月号裏表紙に印刷された文章より。