ロココ、モダン、そしてクールの誕生

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ロココだねェ、パリっ子だってね〜 ロベール・カサドシュの弾くスカルラッティソナタを聴きながら思わずつぶやく。クリスタルのような音の粒子。その〝ギャラントさ〟の秘密は、緩急ではなく、節度をもってコントロールされた強弱にこそある。K27のロ短調にしても、その空は鉛色ではなくあくまでも薄墨色なのだ。

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■ あらゆる「モダン」は一切の鈍重さから無縁でなければならない。鈍重さは、感情の過多から生じる。そして…… 中華ソバをすすりつつ、マイルス・デイヴィスを聴いている。

 

1946年のモランディ

■ CDをいくらか処分することにし御茶ノ水まで運んでゆき、査定を待つあいだ東京ステーションギャラリーで「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」を観てきた。

 モランディという名前を知り、その作品に触れたのはいまから26年前のこと。西武デパートがまだ有楽町マリオンにあったころ、そのなかのアートフォーラムで回顧展がひらかれたのだ。おなじモチーフをおなじトーンで執拗に描きつづけるその独特の作品世界に圧倒されはしたものの、かえって一枚一枚の絵についていえば強い印象は残らなかったと言っていい。だから、今回はあえて、舌の上でアメ玉を転がすようにじっくり見てやろう、そんなふうにかんがえた。

■ サインの位置にみる〝自由〟さ、意外に作品ごとに異なるタッチなど、じっくり見てゆくと気づくこともさまざまある。が、もっとも目を引かれたのはその「線」であった。

 その「線」をみると、モランディがほんとうに描きたかったのは「もの」ではなく、「もの」がある世界の、その世界を充たしている気(エーテル)だったのではないか、と思えてくる。「線」とは、「もの」を空気から隔てる輪郭などではなく、「もの」と空気とがそこで出会うところ、波打ち際である。だから、モランディの描く線はいつもふるふると揺れているのだ。一見静かにみえるモランディの絵と、一瞬の世界を切り取った写真との決定的な差異はそこにある。モランディの静物画はいつも動いている!

■ 会場の第2室に、2枚の静物画が掛けられていた。ほぼ同じ構図である。後ろに並んだ3つのうつわは並び順までそっくり同じだが、手前に置かれた小振りなうつわが一枚は中央に1個、もう一枚は左右に離れて2個とそこがちがう。じつは、前者が1946年の作品、そして後者が1936年の作品である。まさか、2枚の絵のあいだに10年もの時間の隔たりがあるとは…… 思わずキャプションを二度見してしまった。

 けれども、この2枚はやはりまったく別物だ。そして、ぼくは断然「1946年作」の方を取る。キャンバスの地が見えるくらい薄塗りで、また筆の行き来にも慎重さが窺われる「1936年作」に対し、「1946年作」からはより大胆かつスピーディーな仕事ぶりが感じられる。まるで、早くつかまえなければ逃げられてしまうとでもいうかのように。

 キリコの影響から抜け出したと思われる1930年前後にこのふるふると揺れる線はモランディの絵のなかに登場し、その後晩年まで一貫して変わることはない。モランディは、半生をかけてエーテルの揺らめきを〝生け捕り〟せんと試行錯誤しつづけたのではないだろうか。ぼくが今回の展覧会をみて強く感じたことは、こんなことであった。

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モランディによる2枚の静物画 上が1946年の、下が1936年の作

円山応挙の『元旦図』

■ 花見と同様、元日の朝の太陽を神聖なものとみなす「初日の出」もまた、日本人の自然観を知るうえで欠かすことのできない風習のひとつなのではないか。
円山応挙『元旦図』。府中市美術館の「ファンタスティック〜江戸絵画の夢と空想」に展示されているのを観た。
 横長の紙の右下に、裃を着けた男がこちらに背を向けて立っている。左上には、薄墨色の山の稜線からいままさに昇らんとする太陽の一部が朱色で描かれる。男の背後に伸びた長い影が、太陽光の強さを物語っている。描かれているのはそれがすべて。あとは余白だ。ひとり太陽に対峙して、男はいったい何を願っているのか。思わずそんなことまで考えてしまう。
■ それにしても、この構図のなんとモダンなことか。それは、日本画になじみのないぼくが思わず目にとめたほどである。あまりにモダンすぎて、まるで現代のイラストのようにさえみえる。応挙は、こんなふうに紙を横位置に使うことがよくあったのだろうか。
■ そもそも「初日の出」とは、太陽とひとりの人間とのあいだに取りかわされるごくごく個人的な体験である。応挙は、その有り様を、太陽とひとりの正装をした男の姿のみでじつに見事に描き切っている。元日の朝の厳粛な気分に、思わず背筋がシャンと伸びるような作品である。

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さまざまの事おもひ出す桜かな

■ また桜の季節がやってきた。この時期になるときまって思い出すのが、「さまざまの事おもひ出す桜かな」という芭蕉の句である。
■ 年ごとに多少の違いこそあるものの、桜は、ある決まった時期になると一気に開花し、そして一気に散る。だらだら続かず、花の盛りはほんの1週間程度とごく短いが、そこがいい。ほかの多くの花の開花の期間を「線」にたとえるなら、桜のそれは「点」といえるだろう。それゆえ、もし仮に「暦」がなかったとしても、ぼくらはきっと桜の開花によって季節の変わり目を知ることができる。それにくらべたら、ひとが「節目」と考えがちな「正月」や「誕生日」といった行事などは「暦」なしには知りようもないのである。日本の風土に生まれ育った人びとが古来から桜の開花をひとつの「節目」としてかんがえてきたのは、だから当然といえば当然なのである。
■ ここ数年、桜のたよりを聞いて思い出すのは平成23年の春、あの東日本大震災とそれにともなう原発事故が発生した春にみた桜のことである。いつもより心なしか澄み切った、しかしそのじつ放射性物質を含んだ青い空を背景に、それはまるでなにも知らないかのように咲き誇っていた。この先日本は、そして自分の暮らしはどうなってゆくのだろう? そんな不安を抱えながら見上げるこちらの気持ちなど一切おかまいなく、ずいぶんと浮世離れしてみえたものだ。

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描かれた大正モダン・キッズ

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◆ずっと以前から、板橋区立美術館はいい企画展示をやる美術館だった。とくに、〝池袋モンパルナス〟界隈の戦前の洋画家たちの作品の展示にかけては他の追随を許さないといった感がある。まだ学生だったころ、実家が比較的近所だったこともありぼくはここで松本竣介長谷川利行といった名前を知った。尾崎眞人さんが学芸員をなさっていたころだ。

 その板橋区立美術館で、《描かれた大正モダン・キッズ  婦人之友社『子供之友』原画展》という展示をみてきた。すでに尾崎学芸員はここを離れて久しいが、その〝伝統〟は継承されているようでこの展示も広い意味での〝池袋モンパルナス〟界隈といえるだろう。『子供之友』の出版元である婦人之友社雑司が谷の上り屋敷(池袋と椎名町の間)にあり、社主の羽仁吉一・もと子夫妻は後に自由学園もこの土地につくっている。昭和4(1929)年3月、上京した松本竣介はこの近所に住むようになるが、それはかつての恩師が自由学園で教師をしており世話してくれたからだという(宇佐美承『池袋モンパルナス』を参照)。ちなみに、婦人之友社の社屋も自由学園とおなじくフランク・ロイド・ライトの設計によるものだった。

◆さて、『婦人之友』読者の子供たちをターゲットに創刊されたという雑誌『子供之友』だが、大正3(1914)年4月の創刊号からしばらくは「日本における近代漫画の祖」と称される北澤楽天が表紙、挿絵などを手がけている。さらに、当時すでに売れっ子だった竹久夢二らが加わる。ただ、個人的には、まだこのあたりは子供向けに描かれた「絵」という印象で原画をみる楽しさはあるが「モダンさ」はさほど感じられない。

 表紙にモダンの風が吹きはじめるのは、やはり岡本帰一、ベルリン帰りの村山知義、そしてみずからの作品を「童画」と名付けた武井武雄らの登場以降だろう。彼らはそこに「グラフィカルデザイン」の視点を持ち込んだ。たとえば岡本帰一が表紙を手がけた昭和5(1930)年6月号では、それまでの作家とは異なり「子供之友」というロゴにも細心の注意が払われていることがわかる。ワクワクするような装飾的な文字で描かれている。その絵筆によって子供たちをファンタジーの世界へと誘う彼らの原画は、それまでのどこか教科書のような作品とはまるっきり異なっていた。

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◆「国家総動員法」が成立した昭和13(1938)年あたりになってくると、さすがにこの雑誌にも戦争の影がさしはじめる。すでにここで取り上げた『少年満洲読本』が発行された年である。従軍画家として蒙古に滞在したことのある深沢省三による騎馬民族を描いた絵や満州の資源についての文章など、誌面に満蒙の話題が登場する。子供たちも、もはやファンタジーの世界に遊んでいるわけにはゆかない。戦時下の子供は、子供なりの果たすべき勤めがあるのである。それでも、思ったより非常時の緊迫した空気が感じられないとしたら、それは当時の編集者や作家たちによる「牙城」を守ろうとの必死の攻防戦の結果ではないだろうか。そこに静かな怒りと抵抗とをみた。

◆それにしても、『子供之友』しかり、鈴木三重吉の『赤い鳥』しかり、この時代、教育者のみならず文学者や芸術家たちまでが子供たちのために何ができるか? つねに真剣にかんがえ取り組んでいたことにあらためて感じ入る。それは、子供たちの教育を通じて未来をよくすることができるという確信を彼らが共有していたからこそできたことにちがいない。

ドビュッシー『ピアノのための12の練習曲』

ドビュッシーの『12の練習曲』を聴いている。いまの耳にも、その音楽はじゅうぶんに前衛的に響く。

◆ところで、いま聴いても前衛的であると書くとき、ドビュッシーが1915(大正4)年に完成させたこの音楽を、ぼくはバロック〜古典〜ロマン派〜近現代という音楽史の流れの上に据えて聴いている。つまり、それ以前の音楽とくらべてそれ(『12の練習曲』)は新しくて、どこかつかみどころに欠けると感じているわけだ。

 でも、ぼくは、それではいつまでたってもドビュッシーの音楽に近づけないような気がしている。音楽史などとは遠くはなれて、もっと直感的にその音楽に触ってみたいのだ。

◆日本にドビュッシーをひろく紹介したとされるのは太田黒元雄だが、大正4年の12月18日、つまりドビュッシーが『12の練習曲』を作曲したのとおなじ年に、太田黒は当時暮らしていた馬込の自邸で第1回「ピアノの夕」を開催している。テーマはずばり「ドビュッシー」。プログラムには『12の練習曲』こそ載っていないものの、ピアノ版による「牧神の午後への前奏曲」「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」などが演奏されたという。大正4年の東京の夜空に、同時代を生きる作曲家ドビュッシーの音楽の調べはどんな軌跡を描いたのだろう。美しく、自由奔放で、野心的なその音楽は。

 願わくは、青空にみつけたジュラルミン製の機体を眩しげに見上げるように、一個の輝く「点」としてドビュッシーの音楽とも出会ってみたいのだ。

ドビュッシー:12の練習曲

戦時下の音楽

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■ ここのところ、ハインリヒ・シュッツの「わがことは神に委ねん」SWV.305を繰り返し聴いている。クラシックはそこそこ聞きかじってきたつもりだったが、まだこんな凄い曲もあったのだ。正直、びっくりしている。
 シュッツは、敬愛する師ジョヴァンニ・ガブリエリの下イタリアで研鑽を積み、ドイツに帰国後ほどなくしてザクセン選帝侯の宮廷楽長に就任するが、不運にもその直後、全ドイツの人口を1/3にまで減らしたといわれる「三十年戦争」に巻き込まれてしまう。この「わがことは神に委ねん」が収められた「小宗教コンチェルト第1集作品8」は、1636年、その戦火の真っ只中で作曲されている。戦時下でもじゅうぶん演奏できるよう少人数のアンサンブル向けに作曲されていることから、タイトルの頭には「小」と付された。いまぼくが好んで聴いているのも、テルツ少年合唱団のソリストたちによる質朴な演奏である。けれども、むしろ人数が少ないからこそそこには切々とした魂の叫びが宿り、聴くものの心を掴んではなさない強さが生まれる。
 思うに、シュッツはこの曲集をドイツ各地の教会で演奏されることを念頭に作曲したのではないだろうか。小規模のアンサンブルなら、小さな村の教会で女や子供たちだけでも演奏できる。そしてそれを演奏しさえすれば、荒廃したドイツ全土に散り散りなっていようとも人びとの心は居ながらにしてひとつにつながり、信仰は守られる。ざわついた心を鎮め、人びとを正しい道筋へとを導いてゆくかのようなそのきっぱりとした音楽に触れると、シュッツというひとがいかに「戦時下の音楽」のあるべき姿について深いところで考えていたかがよくわかる。
 いっぽう、おなじく乱世の時代にあって、蓮如は「御文(おふみ)」という手段で各地に散らばった門徒たちに弥陀の教えを正しく伝えようと心を砕いた。それはまた、シュッツがその音楽によってなさんとしたことを思い起こさせる。シュッツの音楽が、彼の深い信仰心の表明であることをそのことが教えてくれはしないだろうか。


Tölzer Knabenchor - SCHÜTZ(SWV 305)